トリビアの泉
人の判断は、その人の経験と知識により行われる知的行動であると言えるでしょう。
もっとも、その判断の適応範囲、正確性および判断速度がその人の本当の知力、智慧だとも言えますが。
子曰く"一を聴いて十を知るは、それ顔回か。"と言いますしね。(外部記憶発動!オタクネダだ。)
さて、そんななか、"トリビアの泉"にも及ばない知識でも判断が違うって例を。
それは、大学時代の一般教養"哲学"の時間。(一般教養で哲学を取るのが粋狂であるけど)
前後の話は忘れましたが、妙に記憶に残っているのが、講師が、東洋には姓名判断があるけど、西洋には
無いと言ったこと。で、結論は、普遍性が無いので姓名判断は根拠が無いとかって話。何か言外に東洋
は劣っているってでもいいたげな印象を持ったけど。
で、悪いけど、西洋にも姓名判断と言える占いはあるんだな。アルファベットそれぞれに数字を当てて
その総数等で占うんだけど。ま、様な一般化してないので知られてないんだけど。人の性格とか運命とか
をその人の名前で占おうってのは洋の東西に関わらず人の希有するところだろうと思うんだけど。
ま、それが本当に当たるかどうかは別ですけどね。
って事で、こんな些細な知識(ってほどでもない無いけど)でもその結論は違ってくるって話でした。
ちなみに、私、中学時代西洋占星術に凝っていてホロスコープも書けました。もっとも自分で占っても
当たらないのでやめましたが。西洋占星術って一見科学的に見えるけど、様はホロスコープを見てイン
スピレーションを働かさないといけなので、この辺はほかの占いと変わらない訳で、スピリッチャルな
物はほとんど無い私には不向きだった様で。
では、また。この辺のネタ続けるかな?
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